★映画「第三の男」 ― 2016年02月02日 01:47:00
▲NHKで「第三の男」の放送があり、録画した。そして思い出したのが2013年のウィーン旅行。この映画の地に行けるのが楽しみだった。以下は私の「ウィーン記」からの抜粋。
●ウィーン旅行5日目8月27日
今日はツアーはなく各自自由行動となっていた。私と家人は先ずカールプラッツに出てからオペラ座周辺をしばらく散歩して、中央墓地に行くことにした。「第三の男」の最後シーンに出てくる並木道はここにあると聞いたからである。少し乗り慣れたトラム71で南へ向かう。トラムを降りると目前の正門らしき門は閉じられていたので開いていた脇門より入る。すぐ真っ直ぐな道を見つけ連写。然し、よく考えると逆である。あのシーンでヒロインは墓所から真っ直ぐに外へ向かったのだから。案内図を念頭に道を変えて事務所らしき所を見付けて入る。ここが本来の見学スタート地点らしい。先ずはモーツアルト、ベートーベン、ヨハン・シュトラウス等の墓碑を見て、再度真っ直ぐな並木道に向かう。ここから見ると最初写真を撮った地点は遠くかすむ程の距離にある。「第三の男」関連説明などないので、あのシーンの撮影地点はこの辺りかと想像するばかり。前日O氏に伺ったら、「沢山似た風景があります」と言われ、確かにそのようであったが、私は正面に向かうこの道がそれであると確信した。ところでここの墓地は墓地特有の陰気さはなく、公園の類のようにきれいにされていた。だから墓地を歩いている気はせず、また広い道なので関係者の車が走り廻っている。そういえば日本名(日本語)の墓碑もあった。
●ウィーン旅行7日目8月29日
第三の男の下水道ツアーを「15時」に予約してあるので、集合場所である公園に向かう。公園内にはワゴン車が来ていた。その車体に「3MANTOUR」と記してあり、皆この車の窓口で切符を買う。残念ながら日本語ツアーはなく、英語とドイツ語とのことで英語のツアーにした。ツアー客全員ヘヤーキャップを付けてヘルメット着用、そして映画のシーンにあったように、入口の鉄板の蓋を開けて螺旋状の石段を下りる。英語の説明は大体雰囲気で理解しながらである。広い所に出た。びっくりした。何と、下水道の壁、もちろん当然下水の流れる穴もあるのだが、そこに映画の場面や、下水道の歴史、工事風景など様々の映像が直接映写される。さらに説明を受けて奥へ進む。次第に匂いがきつくなるが、十分満足できたツアーであった。実はこのツアー客のほとんどは意外にも若い人が多かった。日本人らしい人は他に見当たらなかった。多分最年長は私だったのではないか。
●ウィーン旅行5日目8月27日
今日はツアーはなく各自自由行動となっていた。私と家人は先ずカールプラッツに出てからオペラ座周辺をしばらく散歩して、中央墓地に行くことにした。「第三の男」の最後シーンに出てくる並木道はここにあると聞いたからである。少し乗り慣れたトラム71で南へ向かう。トラムを降りると目前の正門らしき門は閉じられていたので開いていた脇門より入る。すぐ真っ直ぐな道を見つけ連写。然し、よく考えると逆である。あのシーンでヒロインは墓所から真っ直ぐに外へ向かったのだから。案内図を念頭に道を変えて事務所らしき所を見付けて入る。ここが本来の見学スタート地点らしい。先ずはモーツアルト、ベートーベン、ヨハン・シュトラウス等の墓碑を見て、再度真っ直ぐな並木道に向かう。ここから見ると最初写真を撮った地点は遠くかすむ程の距離にある。「第三の男」関連説明などないので、あのシーンの撮影地点はこの辺りかと想像するばかり。前日O氏に伺ったら、「沢山似た風景があります」と言われ、確かにそのようであったが、私は正面に向かうこの道がそれであると確信した。ところでここの墓地は墓地特有の陰気さはなく、公園の類のようにきれいにされていた。だから墓地を歩いている気はせず、また広い道なので関係者の車が走り廻っている。そういえば日本名(日本語)の墓碑もあった。
●ウィーン旅行7日目8月29日
第三の男の下水道ツアーを「15時」に予約してあるので、集合場所である公園に向かう。公園内にはワゴン車が来ていた。その車体に「3MANTOUR」と記してあり、皆この車の窓口で切符を買う。残念ながら日本語ツアーはなく、英語とドイツ語とのことで英語のツアーにした。ツアー客全員ヘヤーキャップを付けてヘルメット着用、そして映画のシーンにあったように、入口の鉄板の蓋を開けて螺旋状の石段を下りる。英語の説明は大体雰囲気で理解しながらである。広い所に出た。びっくりした。何と、下水道の壁、もちろん当然下水の流れる穴もあるのだが、そこに映画の場面や、下水道の歴史、工事風景など様々の映像が直接映写される。さらに説明を受けて奥へ進む。次第に匂いがきつくなるが、十分満足できたツアーであった。実はこのツアー客のほとんどは意外にも若い人が多かった。日本人らしい人は他に見当たらなかった。多分最年長は私だったのではないか。
★今日の研究作業から ― 2016年02月06日 01:35:21
★久しぶり重富への自転車行 ― 2016年02月10日 02:42:28
▲好天が続くので久し振りに市内西端の重富へ行った。JAの店に寄った。
深ネギが3本125円なので買って家人に話したら、某所では「100円」と言われた。私の感覚では現在は150円以上なのだが。高速道路に沿う形で遠回りして帰ったが、いずこでも住宅建設現場を見た。市内の旧3町の内、旧姶良町のみが人口増加中とか聞いた。まもなくイオンモールも完成する。一層増加に拍車がかかるのでは。とは言え私は加治木もいいと思う。我が家から自転車で5分前後で大川、滝、海がある。高速ICもあり、空港まで車で20分弱。やや大きな病院と高齢者施設は歩いて数分内にある。そして意外と桜島降灰の直撃が少ないし、あってもそれを運んで来た南風は翌日に雨をもたらす。
帰宅後、2日前に剪定した庭木を細かく切ってゴミ袋3杯にまとめた。
▲以下は現在研究作業中の一部。資料は少し読み易くしてある。
●「二十三日(8月2日)晴、朝7時頃川の瀬破れ、よってこの所を退き、高鍋川に到るも、(官軍既に)高鍋に放火したり、舟渡しで渡り、津野に着、今日敵の追撃に遇也、渡し船(小丸川)沈没し、溺死者50名の由、夜半美々津に退く」
○高鍋川(小丸川)○津野(都農ツノ、都農町川北、国道10・県道40・302・310・都農川)
※1877年8月2日、西郷軍は佐土原方面から追われ、高鍋へ向かうが、官軍の追撃が早く、さらに北方美々津(日向市)へ走る。少し遅れた部隊は既に高鍋が陥落していたので大いに混乱する。
●「(前略) 高鍋城下を望めは官軍既に乱入放火し、道を遮るにより、味方の哨兵線内へ入ること出来ず、よって衆議紛々、或いは進入せんと云うもあり、或いはこの現兵により敵に当り斃れ尽さんと云うもありで、空しく時間を費す内に、官軍四方を取囲み、我隊同じく散乱す、自分には当所にて御召捕相成り、即日原村在留本部へ護送せられる」
※この人物は降服したが、同隊の某は「(前略) 自分には直ちに山中に駈込み、日の暮れるを待ち、深夜に至って右山中を忍び出る」と記す、そして帰宅する。
深ネギが3本125円なので買って家人に話したら、某所では「100円」と言われた。私の感覚では現在は150円以上なのだが。高速道路に沿う形で遠回りして帰ったが、いずこでも住宅建設現場を見た。市内の旧3町の内、旧姶良町のみが人口増加中とか聞いた。まもなくイオンモールも完成する。一層増加に拍車がかかるのでは。とは言え私は加治木もいいと思う。我が家から自転車で5分前後で大川、滝、海がある。高速ICもあり、空港まで車で20分弱。やや大きな病院と高齢者施設は歩いて数分内にある。そして意外と桜島降灰の直撃が少ないし、あってもそれを運んで来た南風は翌日に雨をもたらす。
帰宅後、2日前に剪定した庭木を細かく切ってゴミ袋3杯にまとめた。
▲以下は現在研究作業中の一部。資料は少し読み易くしてある。
●「二十三日(8月2日)晴、朝7時頃川の瀬破れ、よってこの所を退き、高鍋川に到るも、(官軍既に)高鍋に放火したり、舟渡しで渡り、津野に着、今日敵の追撃に遇也、渡し船(小丸川)沈没し、溺死者50名の由、夜半美々津に退く」
○高鍋川(小丸川)○津野(都農ツノ、都農町川北、国道10・県道40・302・310・都農川)
※1877年8月2日、西郷軍は佐土原方面から追われ、高鍋へ向かうが、官軍の追撃が早く、さらに北方美々津(日向市)へ走る。少し遅れた部隊は既に高鍋が陥落していたので大いに混乱する。
●「(前略) 高鍋城下を望めは官軍既に乱入放火し、道を遮るにより、味方の哨兵線内へ入ること出来ず、よって衆議紛々、或いは進入せんと云うもあり、或いはこの現兵により敵に当り斃れ尽さんと云うもありで、空しく時間を費す内に、官軍四方を取囲み、我隊同じく散乱す、自分には当所にて御召捕相成り、即日原村在留本部へ護送せられる」
※この人物は降服したが、同隊の某は「(前略) 自分には直ちに山中に駈込み、日の暮れるを待ち、深夜に至って右山中を忍び出る」と記す、そして帰宅する。
★久しぶりにWin10の話 ― 2016年02月15日 02:44:03
▲過日弟が慌てて電話して来た。Windows 10を導入したら壊れたと。そして、土曜日の写真会に行ったら、「私のパソコンが壊れた」との話を聞く。詳しく聞く中で、両者に共通点があった。それは大手F社製のノートパソコンだった。たまたま偶然かも知れないが、壊れた状況が極めて似通っていた。
▲小生のノートパソコンもデスクトップ機も順調であるが、悩ましい問題を抱えている。それはPDFソフトが前世代のものであるからだ。事情は以前書いた(2015年10月17日)が、これを再び新世代版に替えるべきかどうか、バージョンアップの誘いが出るたびに悩む。それにどうしてそうしたかも分らないが、デスクトップ機は当然日本語版だが、何故かノートパソコンは英語版が入ってしまった。「簡易検索」が「find」となっている。まあ大した支障もないので、活用しているが。
▲以下は今日の研究作業から、ある日記による。文は読み解いてある。1877年8月4日。
※①兵糧不足②兵員の減少と合隊③桐野の言葉
●翌4日朝、元遊軍六番隊給養山下某が、我宿所に来たり、兵糧を乞う、よって本営たる河野・高城の所在を聞きしに、彼の本営は平岩村にありと、そこで急ぎ至りしに、桐野利秋・河野四郎左衛門(河野主一郎)・高城十次の3士に面会す、桐野曰く「旧佐土原と一ツ瀬川の戦いでは都城隊は取囲まれ、助かりしは1・2名位もあるならんと思いしが、何人程助かりしや」と、如何にも心配ありしならんと、その言葉聞きし軍中のその厚情は一層感激したるが、「ようやくにして23名は逃れ来りし」と答えしに、桐野曰く「自分も都城の人と云う若い人を連れ来て居る」とのことにより、誰かと見るに同隊なる財部市助なり、利秋の云うに「これまでの如くに兵糧も充分あらず、また兵員もこれまでの如く区別なくして、これから合兵隊となしたるにより、その心得にて尽すべし」と、そのところの縁側に麦麺箱が5つ程ありし、それを3箱位焚きて連れ越しの兵員に与えて、暫時休憩せし後は、本道なる美々津川渡し場の上にて、渡り来る敵を打止むる為め、河野四郎左衛門が松火矢(木製砲)を折角作製中に付、その所に操出すべしとのこと(下略)
●平岩村(日向市平岩、国道10・県道226)
▲小生のノートパソコンもデスクトップ機も順調であるが、悩ましい問題を抱えている。それはPDFソフトが前世代のものであるからだ。事情は以前書いた(2015年10月17日)が、これを再び新世代版に替えるべきかどうか、バージョンアップの誘いが出るたびに悩む。それにどうしてそうしたかも分らないが、デスクトップ機は当然日本語版だが、何故かノートパソコンは英語版が入ってしまった。「簡易検索」が「find」となっている。まあ大した支障もないので、活用しているが。
▲以下は今日の研究作業から、ある日記による。文は読み解いてある。1877年8月4日。
※①兵糧不足②兵員の減少と合隊③桐野の言葉
●翌4日朝、元遊軍六番隊給養山下某が、我宿所に来たり、兵糧を乞う、よって本営たる河野・高城の所在を聞きしに、彼の本営は平岩村にありと、そこで急ぎ至りしに、桐野利秋・河野四郎左衛門(河野主一郎)・高城十次の3士に面会す、桐野曰く「旧佐土原と一ツ瀬川の戦いでは都城隊は取囲まれ、助かりしは1・2名位もあるならんと思いしが、何人程助かりしや」と、如何にも心配ありしならんと、その言葉聞きし軍中のその厚情は一層感激したるが、「ようやくにして23名は逃れ来りし」と答えしに、桐野曰く「自分も都城の人と云う若い人を連れ来て居る」とのことにより、誰かと見るに同隊なる財部市助なり、利秋の云うに「これまでの如くに兵糧も充分あらず、また兵員もこれまでの如く区別なくして、これから合兵隊となしたるにより、その心得にて尽すべし」と、そのところの縁側に麦麺箱が5つ程ありし、それを3箱位焚きて連れ越しの兵員に与えて、暫時休憩せし後は、本道なる美々津川渡し場の上にて、渡り来る敵を打止むる為め、河野四郎左衛門が松火矢(木製砲)を折角作製中に付、その所に操出すべしとのこと(下略)
●平岩村(日向市平岩、国道10・県道226)
★県下一周マラソン ― 2016年02月18日 23:52:58
▲胸に名札を掛けた人がいる。ひょっとしたらと考えて声を掛けてみた。「マラソンが来るのですか」。「30分頃に来る」とのこと。私は「30分後に来る」と勘違い。お蔭で約30分、国道10号網掛橋の上で寒い思いをした。応援に来て帰りは肺炎かと危惧しつつ。1時30分が近づくと周りに人が集まり初め、この橋上は「加治木奄美会」の横断幕や幟がはためき、熱気が伝わる。やがて、1位の鹿児島(鹿児島市)チームの選手が来た。早速写真を……。見事に失敗、写真には応援の小旗だけが写った。そこで橋の反対側へ行き、狙っていたら来た。何と繰り上げスタートとかで、団体で走って来た。撮影またほとんど失敗。今度は車に遮られた。
ところで、3月の鹿児島マラソンは盛り上げている方がほとんどだが、私は反対。我姶良市からは普通道は2本の道しかない。肝心な国道10号は通行止めになるとか。やるなら鹿児島市の市道を用いてやればよい。 でも写真撮影には行こう。所詮この程度が私の哲学の限界だ。
▲以下は最近の研究作業から、ある日記に基づく。文は読み解いてある。1877年8月6日。
●8月6日雨、本日午前7時頃より、我隊守兵場右小隊一番・二番・三番分隊に間へ敵より相掛け、そこで戦争に及んだところ、しばらく相戦い、台場の間5・6間も敵より寄せ来るところ、味方より切込に相掛け、敵を打ちらし、その内第一大隊一番中隊より応援として来り仕合(幸せ)にてて、ともに切込み、賊死骸20名余内3名師官(士官)等相見得える、一の一中隊長と師官(士官)切合、敵師官(士官)を切殺し、一の中隊長は手負にて、我隊分捕多数あり、左の通にての間午前11時過ぎ敵を打ちらし、我隊右の守兵台場へ引揚げ、大勝利にて喜敷事(よろこばしきこと)にて仕合せに御座候なり(中略)●賊(官軍のこと)死骸20名余、手旗3本、七連玉1000発余、針打弾薬千発、時計2つ、刀4本、針打銃4挺、長七連銃10挺、腰具拾、短銃1挺但し中折弾薬付き、金50円但し隊附夫卒の分捕品、外套2・3着、喇叭1つ、手帳並びに書状無数、烟草入4・5、但し金具金銀、右本日矢ヶ内守兵場戦争にて分捕る(下略)
ところで、3月の鹿児島マラソンは盛り上げている方がほとんどだが、私は反対。我姶良市からは普通道は2本の道しかない。肝心な国道10号は通行止めになるとか。やるなら鹿児島市の市道を用いてやればよい。 でも写真撮影には行こう。所詮この程度が私の哲学の限界だ。
▲以下は最近の研究作業から、ある日記に基づく。文は読み解いてある。1877年8月6日。
●8月6日雨、本日午前7時頃より、我隊守兵場右小隊一番・二番・三番分隊に間へ敵より相掛け、そこで戦争に及んだところ、しばらく相戦い、台場の間5・6間も敵より寄せ来るところ、味方より切込に相掛け、敵を打ちらし、その内第一大隊一番中隊より応援として来り仕合(幸せ)にてて、ともに切込み、賊死骸20名余内3名師官(士官)等相見得える、一の一中隊長と師官(士官)切合、敵師官(士官)を切殺し、一の中隊長は手負にて、我隊分捕多数あり、左の通にての間午前11時過ぎ敵を打ちらし、我隊右の守兵台場へ引揚げ、大勝利にて喜敷事(よろこばしきこと)にて仕合せに御座候なり(中略)●賊(官軍のこと)死骸20名余、手旗3本、七連玉1000発余、針打弾薬千発、時計2つ、刀4本、針打銃4挺、長七連銃10挺、腰具拾、短銃1挺但し中折弾薬付き、金50円但し隊附夫卒の分捕品、外套2・3着、喇叭1つ、手帳並びに書状無数、烟草入4・5、但し金具金銀、右本日矢ヶ内守兵場戦争にて分捕る(下略)