★明治十年二月二十日の昼と夜2018年01月27日 23:39:24

薩軍の川尻本営跡
▲西南の役の始まりを示唆する3資料を示す。いずれも私の作成したファイル「●101~423(提供用)●本文編西南の役171030」より引用ですが、原文と一致させてある。A・B・Cは筆記人を示す。
①資料1(薩軍七番大隊八番小隊A)
●同廿日熊本県下川尻駅に着陣す(中略)此夜は爰に宿陣し、不虞の備を為し尚各隊交番、四方を巡羅(巡邏か)するの際、台兵突然来て九番小隊の巡羅兵に発砲す、依て止むを得す各銃器を要せす駆散して伍長一名を捕獲す(後略)【12358002】:(2)
②資料2(薩軍七番大隊三番小隊B)
●丑二月廿日晴、今日小川水野太左衛門所より午前七時三十分出立、宇土町にて間宿これ有り、川尻草野角次所へ二時比に着仕、直に玉薬輜重方番兵いたし、今晩国分八番小隊番兵へ鎮台より川尻町火を掛け候賦に、斥候として差越候所に、右国分八番小隊より取方相成候事(以下略)※宇土町(宇土市本町、国道3・57・県道297・浜戸ハマド川)【20035014】:(2)
③資料3(熊本隊C)
●(前略)此日縣廳掲示して曰く鹿児島聯暴徒擅に兵器を携へ國憲を憚らす叛跡顯然に付征討被仰出云々と因て始めて征討の命下るを知る、又熊本より来り告くる者あり曰く「今朝權少警視神足勘十郎東京巡査五百餘人を率ゐ熊本城に入る」と、此夕薩軍先鋒別府晋介二大隊を率ゐ川尻町に達す夜に入て熊本鎮台の巡邏兵四五十人薩兵を銃撃す薩兵撃て之を卻け其數名を斬殺す之を熊本開戰の初度とす(略)【20045022】:(6)
◎この日(2月20日)、2月15日加治木を発した別府晉介率いる六番・七番連合大隊が「昼」川尻に到着した。早速付近に警備体制を敷いた。その「夜」(深夜)熊本鎮台の小部隊「四五十人」が来て薩軍と衝突した。資料3の熊本隊Cは「之を熊本開戰の初度とす」としている。資料1は襲われたのは「九番小隊」とし、資料2は「八番小隊」としている。ただ他資料の6名が「九番小隊」が襲われたと記している(「西南之役懲役人筆記」)。また熊本鎮台側の戦死者はある資料では1名、さらに別のある資料では2名。いずれも日付は「21日」である。なお薩軍側に戦死者はない。
◎実は私が関心があるのは資料②の「小川水野太左衛門所」、「川尻草野角次所」の部分である。熊本県宇城市小川町と熊本市南区川尻を訪ねて探して見たいものである。果たして今も子孫が居住されているだろうか。

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