★警視隊、肥後盗島(?)に上陸す2018年01月23日 00:39:07

▲以下の「征西戦記稿」資料にある。「肥後盗島」部分は訂正済み。
●是より先き暴挙の鹿児島に発するや綿貫少警視は2月10日警部巡査600余名を率て九州地方発遣の命を受く、既にして大久保内務卿の指揮に依り重信常憲権少警視は福岡に、神足(コウタリ)勘十郎大警部は熊本に、川畑種長大警部は佐賀に向ひ、而して綿貫は長崎に赴き、猶ほ各地警視隊の進退を司る事となり、11日横濱を発し、17日長崎に入り、神足の一行は即日滊船(神奈川丸)に乗じ肥後に向ひ、綿貫の一行は18日将さに出て茂木口を警備せんとするとき内務卿の命あり、更に急に熊本に向はしむ、乃ち滊船(蒼隼丸)の至るを待ち19日長崎を発し、夜肥後盗島に達し直ちに上陸し、是日午後12時曩の神足の部下(風涛の為めに百貫港の上陸遅延せり)と共に悉く入城せり※茂木口(モギ、長崎市茂木町、国道324・県道34・若菜川、茂木港)※肥後盗島(盗人島ヌスビト、熊本市西区近津チコウヅ、1845年完成の近津新地の内、島先端部に灯台がある)※百貫港(百貫石ヒャクカンセキ、熊本市西区西松尾町、国道501・坪井川)【30021008●巻21熊本城戦記】
▲「肥後盗島」は私は不明としていたが、文面から「百貫港」の近くであることが分る。平凡社辞典では「盗島」でヒットしないので、「盗」の1字のみで検索してみた。多くは「盗掘」であったが、ある文面に「盗人ヌスビト島」とあった。それは「近津(チコウヅ)村」の項目であった。その項目を開いて読むと、弘化2年(1845)に干拓された「近津新地」によって陸の一部と成っているとある。そこでGoogleマップの出番である。国道501を左折して、画像で多分その島の北端部であろう道を進むと堤防へ出た。別な石碑はあったが、「元松尾島跡」の関係石碑等はない。実は平凡社辞典では「盗人島」を「離島(現松尾島)」としていたから、それを期待したのだが。別のネット情報で「盗人島」と倭寇を結び付けた文章もあり、またその文章に「灯台」があるとあったので、何とかその灯台の名称を探ろうとネット情報を求めたが、不発に終った。
※画像は近津新地の外れの突堤部より灯台方面(南の方角)を見る(Googleマップで作成)。

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