★射場ノ坂という地名解明より大事な修正2018年01月17日 22:11:05

我が家の庭で
▲「射場ノ坂」はある筆記人がその居住地を記している下記記録中に見える。
●鹿児島県第三大区一小区薩摩国鹿児島郡鹿児島坂元村の内射場ノ坂居住旧士族当時懲役囚(姓)□■(名)(3字略)●私儀明治十年二月西郷隆盛等政府へ尋問の筋有之私学校輩随行上京するに膺り、吾も随行志願の処、第二大隊(村田新八隊長)二番小隊へ加り、隊長中島健彦の指揮に従て押伍となり、同月十五日鹿児島県下を発す※射場ノ坂(イバノサカ、鹿児島市長田町)【10506301】:(3)
▲平凡社辞典では漢字表記ではなく「イバノサカ」とカタカナで表記されている。どうやら鹿児島市長田町の内と理解した。そこで上記のように修正した。詳しく調べるために、江戸時代末期の鹿児島城下の絵図を元に詳述された「鹿児島城下絵図散歩」(2004)という書物を参考にすることにした。絵図にある居住城下士氏名と筆記人が一致しなくても、同姓が見つかれば幸いとの思いであった。ところが筆記人と同じ苗字「□■」が見当たらない。
私はすぐあるカンが働いて、私の資料の元となった原本資料を見ることにした。すると筆記人の苗字を私は「□■」としているが、原本資料は「□◆」となっていた。これはとんでもないミスであり、今まで何年も私が気づくことがなく、誤った表記のまま見過ごされて来たのである。そしてその原因は私が資料作成に当って、原本資料をスキャナーで読み込み、それをワードに変換して作成作業をしたことにあると思われる。恐らくスキャナーによる変換ミスであり、今までそのようなミスは実に多く(3ケタ)、いつも見付けては修正する作業をしてきたが、人名にそのようなミスはなかったし、想像もしていなかった。かくして始まったのがその修正作業である。各種ファイルに氏名があるので、作業に約2時間掛かった。
ちなみに全て手打ちで打ち込んで作成した「征西戦記稿」はミスが少ない。
※画像は今年の年賀状に用いた1枚。昨年は蝶との出会いが少なかった。

★今日の不明地名解明作業から2018年01月20日 01:10:13

小川内番所跡(伊佐市)
▲それは以下の資料Aにある「亀井坂」と同Bにある「神坂」は同じではないかと思ったことによる。なお、両方とも不明を訂正済み。またA・B共に日記・日誌(8ケタ数字が2で始まる)。
●資料A
同十七日旧五日●午前七時大口発程にて亀井坂乗越候処、先日よりの雪末だ消やらす、凡そ処によっては二尺余も降雪居処も有之、斥候三番四番隊は道路明に中々難儀に為有之由、肥後国境大概正午十二時比通行、夫より同国石坂与云宿江昼休、水俣宿江午後三時比着泊、今日の道程八里程※亀井坂(亀坂カメザカ、小川内から亀嶺キレイ峠へ向かう坂、旧大口市小川内コガワウチ)※石坂(イシザカ、水俣市石坂川イシザカガワ、国道268・石坂川)【20004003】:(1)
●資料B
一同十九日大雪●午前七時右同所より出立、小川神坂越方難儀雪壱尺余、夫より下り肥後之内石坂と相となへ、なんきなる坂にて水俣村崎良載所え一泊※小川(小川内コガワウチ、旧大口市小川内、小川内川)※神坂(亀坂カメザカ、小川内から亀嶺キレイ峠へ向かう坂、旧大口市小川内コガワウチ)※石坂(イシザカ、水俣市石坂川イシザカガワ、国道268・石坂川)【20052011】:(1)
▲そして今日は「亀嶺峠」という言葉を思い出した。平凡社辞典にアクセスしたら、その名の由来はここを越えた頼山陽が名付けてから通称になったとしてある。さらにその文に「亀坂」という語句が見えた。ここで私は「亀井坂」と「神坂」は両筆記人がそのように聞いたのであろうと推測した。また「亀坂」は旧藩時代の薩摩藩の国境を守る番所が旧大口市小川内にあり、ここから肥後藩へ向かう坂道と記している。薩摩・肥後の境目が「亀嶺峠」であり、一帯は「亀嶺高原」という景勝地として知られている。
※画像は小川内の旧藩番所跡地(Googleマップで作成)、石碑には「薩摩国小川内関所跡 昭和七年七月七日 蘇峰徳富正敬書」とある(平凡社辞典「小川内番所跡」の項)。すぐ前に伊佐市コミュニティバスの小川内バス停がある。

★警視隊、肥後盗島(?)に上陸す2018年01月23日 00:39:07

▲以下の「征西戦記稿」資料にある。「肥後盗島」部分は訂正済み。
●是より先き暴挙の鹿児島に発するや綿貫少警視は2月10日警部巡査600余名を率て九州地方発遣の命を受く、既にして大久保内務卿の指揮に依り重信常憲権少警視は福岡に、神足(コウタリ)勘十郎大警部は熊本に、川畑種長大警部は佐賀に向ひ、而して綿貫は長崎に赴き、猶ほ各地警視隊の進退を司る事となり、11日横濱を発し、17日長崎に入り、神足の一行は即日滊船(神奈川丸)に乗じ肥後に向ひ、綿貫の一行は18日将さに出て茂木口を警備せんとするとき内務卿の命あり、更に急に熊本に向はしむ、乃ち滊船(蒼隼丸)の至るを待ち19日長崎を発し、夜肥後盗島に達し直ちに上陸し、是日午後12時曩の神足の部下(風涛の為めに百貫港の上陸遅延せり)と共に悉く入城せり※茂木口(モギ、長崎市茂木町、国道324・県道34・若菜川、茂木港)※肥後盗島(盗人島ヌスビト、熊本市西区近津チコウヅ、1845年完成の近津新地の内、島先端部に灯台がある)※百貫港(百貫石ヒャクカンセキ、熊本市西区西松尾町、国道501・坪井川)【30021008●巻21熊本城戦記】
▲「肥後盗島」は私は不明としていたが、文面から「百貫港」の近くであることが分る。平凡社辞典では「盗島」でヒットしないので、「盗」の1字のみで検索してみた。多くは「盗掘」であったが、ある文面に「盗人ヌスビト島」とあった。それは「近津(チコウヅ)村」の項目であった。その項目を開いて読むと、弘化2年(1845)に干拓された「近津新地」によって陸の一部と成っているとある。そこでGoogleマップの出番である。国道501を左折して、画像で多分その島の北端部であろう道を進むと堤防へ出た。別な石碑はあったが、「元松尾島跡」の関係石碑等はない。実は平凡社辞典では「盗人島」を「離島(現松尾島)」としていたから、それを期待したのだが。別のネット情報で「盗人島」と倭寇を結び付けた文章もあり、またその文章に「灯台」があるとあったので、何とかその灯台の名称を探ろうとネット情報を求めたが、不発に終った。
※画像は近津新地の外れの突堤部より灯台方面(南の方角)を見る(Googleマップで作成)。

★不明地名「松葉崎」一件2018年01月26日 05:19:37

▲下記資料にはまだ未訂正なので「松葉崎」は不明となっている。
●資料
二十一日高橋迄繰出し川堤を守兵す、暫時にして松葉崎の方へ繰込み、海岸を守ること一週間にして※松葉崎(不明、熊本市)【12302003】:(11)
▲この筆記人は懲役人である(文末の番号が「1」で始まる)。彼は二番大隊二番小隊の一員で、2月15日鹿児島を出発した西郷軍2大隊の一つで、加治木方面へのルートを進む。文面の2月20日に熊本の小川、そして21日に川尻へ到着した。官軍の接近に備えて現熊本港の方面に当る「高橋」へ向かった。「暫時」・「松葉崎」・「一週間」にこだわって、2の2(二番大隊二番小隊)の他の懲役人の記録との比較を試みた。
▲2の2に属した者のうちで「懲役人」となったのは筆記人を含めて16名である。1小隊200名であるのでその8%。「松葉崎」の字句は上記資料の筆記人のみ。しかし16名中8名の記録に「松橋」がある。私は「松葉崎」は「松橋マツバセ」と推測した。※松橋(旧松橋町松橋、国道268・県道14・161・浅川)
▲そして16名の記録を並べて総合すると、2の2の動きを以下のようにまとめることができる。
①2の2は2月21日川尻到着後ただちに「高橋」方面へ向かった。「百貫石」の字句も見られる。※高橋(熊本市高橋町、県道237・坪井川)※百貫石(ヒャクカンセキ、熊本市西区西松尾町、国道501・坪井川)
②2月22日熊本城攻城作戦が始まった。「高橋」から急行し参戦した。「加藤神社」付近を担当した。※加藤神社(加藤社・錦山ニシキヤマ神社、熊本市中央区本丸、本丸西側)
③2月23日熊本城攻城作戦は攻囲作戦に変更された。
④2月24日松橋方面行きが決定された?
⑤2月25日松橋へ向かった(2名記す)。
⑥以後松橋滞在は1週間(10日間・2週間とも)、3月初め田原坂方面へ向かう。
※画像は地理院地図を元に作成した。

★明治十年二月二十日の昼と夜2018年01月27日 23:39:24

薩軍の川尻本営跡
▲西南の役の始まりを示唆する3資料を示す。いずれも私の作成したファイル「●101~423(提供用)●本文編西南の役171030」より引用ですが、原文と一致させてある。A・B・Cは筆記人を示す。
①資料1(薩軍七番大隊八番小隊A)
●同廿日熊本県下川尻駅に着陣す(中略)此夜は爰に宿陣し、不虞の備を為し尚各隊交番、四方を巡羅(巡邏か)するの際、台兵突然来て九番小隊の巡羅兵に発砲す、依て止むを得す各銃器を要せす駆散して伍長一名を捕獲す(後略)【12358002】:(2)
②資料2(薩軍七番大隊三番小隊B)
●丑二月廿日晴、今日小川水野太左衛門所より午前七時三十分出立、宇土町にて間宿これ有り、川尻草野角次所へ二時比に着仕、直に玉薬輜重方番兵いたし、今晩国分八番小隊番兵へ鎮台より川尻町火を掛け候賦に、斥候として差越候所に、右国分八番小隊より取方相成候事(以下略)※宇土町(宇土市本町、国道3・57・県道297・浜戸ハマド川)【20035014】:(2)
③資料3(熊本隊C)
●(前略)此日縣廳掲示して曰く鹿児島聯暴徒擅に兵器を携へ國憲を憚らす叛跡顯然に付征討被仰出云々と因て始めて征討の命下るを知る、又熊本より来り告くる者あり曰く「今朝權少警視神足勘十郎東京巡査五百餘人を率ゐ熊本城に入る」と、此夕薩軍先鋒別府晋介二大隊を率ゐ川尻町に達す夜に入て熊本鎮台の巡邏兵四五十人薩兵を銃撃す薩兵撃て之を卻け其數名を斬殺す之を熊本開戰の初度とす(略)【20045022】:(6)
◎この日(2月20日)、2月15日加治木を発した別府晉介率いる六番・七番連合大隊が「昼」川尻に到着した。早速付近に警備体制を敷いた。その「夜」(深夜)熊本鎮台の小部隊「四五十人」が来て薩軍と衝突した。資料3の熊本隊Cは「之を熊本開戰の初度とす」としている。資料1は襲われたのは「九番小隊」とし、資料2は「八番小隊」としている。ただ他資料の6名が「九番小隊」が襲われたと記している(「西南之役懲役人筆記」)。また熊本鎮台側の戦死者はある資料では1名、さらに別のある資料では2名。いずれも日付は「21日」である。なお薩軍側に戦死者はない。
◎実は私が関心があるのは資料②の「小川水野太左衛門所」、「川尻草野角次所」の部分である。熊本県宇城市小川町と熊本市南区川尻を訪ねて探して見たいものである。果たして今も子孫が居住されているだろうか。