★研究作業から&我が家の花魁草2018年08月03日 18:30:30

▲以下は1877年5月1日付の別働第二旅団の記事の一部である。西郷軍の配置に付いてしっかり把握していたことが分る。別働第二旅団は人吉方面攻略の主部隊である。なお文中の「江代」は「矢部」とあるべきだが。
●是の時に方り賊軍は胡麻山及び江代近傍より人吉に至るまでの村落に各2~3小隊を駐屯し、西郷隆盛は4月下旬兵士2000を従へ江代を発し、椎葉山を越えて人吉に赴きしと云ふ、又本団の進路に当る湯治・宮園・竹野川・出ル羽・中村・白岩戸・平瀬・椿等の諸村に屯集する賊兵は、其多き300~400に至り寡きも数十に下らずと云ふ
※胡麻山(胡摩山、椎葉村下福良、国道265・327・十根トネ川)
※江代(エシロ、水上村江代、県道142・球磨川)
※椎葉山(椎葉地方の称、那須山とも称する、宮崎県東臼杵郡椎葉村)
※湯治(頭地トウジ、五木村甲、国道445・県道25・川辺川・五木小川)
※宮園(ミヤゾノ、五木村甲、国道445・川辺川)
※竹野川(竹ノ川、五木村甲、国道445・川辺川・下梶原川)
※出ル羽(イズルハ、五木村丙)
※中村(五木村乙、県道25・259・五木小川オガワ)
※白岩戸(シライワド、五木村乙、飯干川)
※平瀬(五木村丙、県道25・五木小川)※椿(五木村丙椿、県道25・五木小川)
▲ネット情報では違うようだが、その花を我が家では花魁草と称している。花魁が夕方化粧するから、この花の色が変わると教えてもらったが。その画像の朝と夕方を1枚にまとめた。

★電動アシスト自転車へストレス掛けた2018年08月06日 02:45:08

▲電池メーターは40である。今日はどうしてもこの坂を上って溝辺台地に上りたかった。それは県道55であるが、小山田地区までは別道を取った。自宅から龍門温泉前を通って龍門司坂前から林道を上る。そこには傾斜11度のマークがあった。すぐ強力なオートマチックに切り替えて上って行く。通常は車も少ない広い林道であるが、何故かこの日は多い。途中2回休みを取る。メーターは30を示している。上り切って少し下ると大きな公園がある。陶夢(とむ)ランドである。それに沿って平坦な道を進む。屋内体育施設前には車が多数並んでいた。少し下ると県道55に出る。ここに龍門司燒がある。ここからが今日のメインである。県道55もまた車がやけに多い。途中1回休み、第一関門のゴルフ場入口前でメーターが18と表示された。ここからの上がりはやや楽と考えて進む。するとほぼ約1分毎に電池メーターが「1」ずつ下がっている。ゴルフ練習場入口ではついに「10」に、そして点滅を始めた。それでも進むとメーターはすぐに「9」を示した。もう限界である。残り数百メートルの目標地点「二里塚」バス停までは無理だと考えた。引き返す。後ろから来る車に気を付けながら下る。再び龍門司燒前に来て、陶夢(とむ)ランドへ上る。ここともう一ヶ所の短い坂、そして自宅前の坂までを「9」の点滅のままで乗り切って帰り着いた。
▲研究作業から、1877年5月1日の西郷軍側記録。
●5月1日未明我行進一大隊江代を発し人吉に到着、直に各隊長と共に本営に会議す、此時官軍大口に突き出しとの偵報により我行進十一番中隊を大口に向け、其余の各隊は鹿児島に向け進軍す、中隊長日置吉左衞門、宮原孫右衞門両人は大斥候として衆に先立て発す、既にして官兵鹿児島に到着の報ありて振武一大隊、行進砲一座進発せり、然る後応援兵を乞ふの急報あるに依て神速行進一大隊繰出すへき令西郷の人吉本営より達す(相良は直に人吉本営に至り軍議して帰営す)
※4月26日以降鹿児島には官軍が続々上陸した。人吉方面の西郷軍の「振武」と「行進」の2大部隊がその対応のため鹿児島へ急行する。結果は城山と鹿児島市街地(甲突川東)を占拠した官軍を西郷軍が包囲する形となる。
▲画像はセミ。何故かわざわざ姿を見せに来て鳴く。

★相変わらずのワードと付き合う2018年08月09日 04:42:25

▲この日ワードは珍しいことをした。ファイルAを保存しようとしたら、その保存活動中に突然消えた。それもBファイルを道連れにして。
そして勝手に起動して恩着せがましく、保存してあると宣言する。よく見るとこの10分近い間の作業が保存から漏れている。恐らく自動保存の範囲内で保存したと言っているのであろう。そんなことより何故急に邪魔したのか説明してほしい。まるでどこかの理事長か会長みたいな振る舞いではないか。「責任者、出て来い!」と、かっての名コンビのセリフを言いたくなる。
▲ワードはいつものように、「IME無効」状態になる。最近はタスクバーにあるファイル名をクリックして済ます。これで「あ」の状態に戻る。またこれも懲りずにして見せるのが、いきなり入力画面が画面の左上の小窓に移動することだ。この現象も同じようにして軽くイナス感じで済ます。何でこういうことをするのか。私は疑う、些細な私の文章でも何か収集する意図があっての動きではないのかと。
▲この日の最大の作業上の収穫は、以下の記事から生まれた。1877年5月3日、官軍第四旅団は鹿児島に上陸し、先にいた別働第一旅団との約束通り配置される。
●昨日(3日)海路より至り(牙営を桝形の島津久芳の邸に置く)、別働第一旅団より受くる所の線に拠って守備す
◎この記事は私にはショックである。この続きに「※島津久芳の邸(………)」の地名説明がない。色々動き廻って作成したのが「※島津久芳の邸(黒木島津家屋敷、鹿児島市東千石町21西本願寺鹿児島別院、国道58・県道25)」である。西郷隆盛銅像前から海へ向かう国道58号と県道25号を挟んで中央公園と対峙する位置にある。薩摩川内市の黒木出張所に電話して確認もした。なお「桝形」は本来の要素に加え、ここが四方道で囲まれていたことを示している。

★苦労したミスの修正2018年08月13日 03:07:06

▲以下の①・②資料は、元々は1資料となっており、日付は5月4日となっていた。そこでこれを①と②に分けた。しかも日付も新しく5月3日(①)と5月5日(②)に分けることになった。
①此時、佐敷方面の敵軍薩兵の守る祝阪の塁壁を敗り、大野に進入するの報あり、我が二番・三番・四番中隊をして薩軍を援け之を討たんとす、山崎定平・櫻田惣四郎参謀たり※佐敷(芦北町佐敷、国道3・県道27・305・佐敷川)※祝阪(祝坂イワイザカ、芦北町市野瀬、県道270・佐敷川)※大野(芦北町大野、県道270・331・佐敷川)【20040076】:(6)
②同5日平明、3中隊人吉を発し一勝地に至る、軍をここに留め斥候を遣し、大野の景況を候わしむ、帰り報じて曰く「祝坂(イワイサカ)既に恢復せり」と※一勝地(イッショウチ、球磨村一勝地、県道15・球磨川)※大野(芦北町大野、県道270・331・佐敷川)※祝坂(イワイザカ、芦北町市野瀬、県道270・佐敷川)【20040077】:(21)
●この資料の番号「20040076」は当然①が引き継ぐ。すると②には新しい番号「20040077」が付く。実はその番号は既に後の方で使われている。つまりその元々の番号「20040077」は「20040078」となり、以下順々に訂正しなければならないことになる。70件以上を。
※エクセル2資料を先ず修正した。これはある方法で簡単に出来た。ワード1資料もクリア出来た。
●いよいよ既にDVDで配布しているワードファイル名「●424~930(提供用)本文編171030」)の修正にかかる。これは各文章の最後に「【個人資料番号8桁】:(文書順)」がある(上記①・②の最後)。これを1件ずつ書き直す。
●さらにこのワードファイルをそのままエクセルに入れ込んだ「地名検査」というエクセルファイルがある。これは「フィルター」機能を利用して呼び出して次々に訂正した。
▲まだまだいくつかの作業があったので2日がかりの作業となった。作業の量は多くはなかったが、やる気が続かなかったから。
実はすぐ出来る簡単な修正方法もあった。それは番号をそこだけ少数点入りの数字にすればよかったのだ。それで資料の価値が変わる訳ではないので。②の資料番号を「20040076.5」と。

★ミス訂正が消えていた2018年08月16日 04:29:06

▲ミス訂正は確かに済ませた。そして確実に保存した。ところが保存した筈のデータが消えた。おかしいと思い、作成したマウスコンピューター機を起動して確かめる。外付け2・本体2・ドロップボックス、一番確実な8GBのUSB、いずれにも痕跡がない。考えられるのはただ1つ。本体の作業専用フォルダーに確かに保存した。ところが私は8GBのUSBの上で作成したとカン違いした。そこでそれを作業専用フォルダーへ逆コピーしたのではないか。2つの作業の時間差が間違いを生じさせたと考える。
しかし、どこかWindows10を疑っている。
▲ミスの元々はある人物の所属部隊の変遷である。彼は人吉へ引揚げの時点では「振武一番中隊」で、まもなく「振武十三番中隊」の小隊長に昇格、さらに後には「雷撃八番中隊」に移動する。薩軍は人材不足から、かかる形で抜擢するのでこのこと自体は珍しくない。私の資料は、戦地別・部隊別に構成されている。だから部隊が違うと全ての記録を移動させねばならない。彼が「振武一番中隊」・「振武十三番中隊」なら「鹿児島戦」、「雷撃八番中隊」なら「水俣・大口戦」で、邊見十郎太の部下として、後には宮崎・延岡の諸戦において戦い、8月負傷・入院する。
◎彼の入院中の8月17日の記録は、
「39.爰に三昼夜、粮既に竭んとするに至り熊田口の熊本兵総て降伏するに及ひ我兵も多降る」
◎当然彼はここで降服するはずだったが、8月18日の記録は、
「40.余者猶西郷等此極に至て未た従容たるを以て病院を脱し、耳を傾け之を窺ふ所に十七日午後十二時(18日午前0時)に至て忽ち装軍の令あり、之れ則ち如何なる妙計乎あると従軍し、転倒匍匐して吶喊呼譟可愛ノ嶽の官塁に迫るに、官兵大に狼狽、偏屨を着し胴乱を肩にし、或は長官を助けて遂に塁を棄て山中に潰走す、我兵勝利、銃器・弾薬を得る無数、則ち之を収めて昼夜疾行」
◎彼は西郷と共に鹿児島へ向う。しかし9月1日の鹿児島城山入り目前に、元々の傷が癒えてなかったので同行をあきらめて自宅へ帰ることにした。彼の「西南之役懲役人筆記」の最後の記録は、
「50.余は固より両所の重疵あるに依り歩行自在を得す、潜に家に帰て療養せり、依て爾後戦状を詳にせす」
※文章前数字は、資料分断した私が付与したもの。
▲画像は霧島市溝辺の県道40と55の交叉点、県道40を直進すれば鹿児島空港へ。県道55は左は溝辺、右は加治木へ、溝辺は1877年8月31日の薩軍・官軍の衝突した所である。